最近、こちらの本を読みました。
落語絵本を一度は目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
絵本作家である川端誠さんが、色のことや落語絵本のこと、絵本のことや食べもののことなど、様々なジャンルについて、語っているエッセイ本です。
その中の「読み聞かせ」から「開き読み」へ という一章がとても心に残ったので、その内容をご紹介します。
他の本でも書いたことなのですが、僕にとってとても大事な事なので重複を承知で書きます。それは「読み聞かせ」という言い方をやめようということです。
という文章から、この章は始まります。
川端さんは「聞かせ」という言い方に対する違和感をとなえています。
絵本は聞かせるのではなく、見て、聞いてもらうものである。
子どもたちのような年下に対してであれば、「聞かせ」でよいのかというと、それも違う。
そのように上からものを言うような言い方はすべきではない、と話は続いていきます。
「読み聞かせ」という言葉の持つ独特なニュアンスに、子どもたちにいいことをしてあげている、という快感を持つひともいるかもしれない、と川端さんはさらに書いています。
じゃあどうすればいいのか、というと、まず、絵本を一緒に楽しむためにしなければいけないことは、大きく分けて二つあるそうです。
「開く」こと、と、文字があればそれを「読む」ことです。
この二つの行動があれば、絵本を読むということは成立します。
そこで章の題名にもある「開き読み」という言葉が出てきます。
ひとりで鑑賞しても「開き読み」、みんなで鑑賞しても「開き読み」です。
メディアも一般もいっせいに「読み聞かせ」をやめ「開き読み」に改めるべきです。
とこの章はしめくくられています。
実際に、この本の中では、私たちがふつう「読み聞かせ」と言うところは全部「開き読み」と書かれています。
読んでいて、言われてみれば確かに、と思う気持ちと、そこまで敏感になるところなのか? という気持ちの両方がわいてきました。
受け取り方によっては、上から目線を感じさせるということもあるにはあるのだと思います。
そこには、大人と絵本と子どもという三者のあり方に対するスタンスの違い、というのが反映されているのではないでしょうか。
良い絵本を子どもに読んであげたい、子どもが大きくなるまでにたくさんの絵本を読んであげたい、といった考えを持っているひとにとっては、「読み聞かせ」というのはなんの違和感もない言葉なのではないでしょうか。
でも、良い絵本を子どもと共有したい、子どもが大きくなるまでにたくさんの絵本をいっしょに読んで楽しみたい、といった考え方の大人は、「開き読み」派なのかもしれません。
もしくは、「読み聞かせ」なんて言い方はどうでもいい、とにかく、子どもと絵本を楽しみたいのだ、という方もいるのかも。
学校にも、定期的に朝の時間、教室に入って、読み聞かせをしてくださっている読み聞かせボランティアの方々がいらっしゃいます。
反省等の中には、子どもがしっかりお話を聞いてくれなかった、というものもよくあります。
司書としては、毎日毎日図書の時間に読み聞かせをしているので、そんなことは日常茶飯事だ、と言いたくなるのをぐっとこらえます。
でも確かに、ちゃんと聞けよこのやろうと心の中では思ってしまう気持ちもわかりますし、せっかくの時間なのだから他の子のためにも静かに聞いてほしいと思うのは当然です。
でも、やはり、読んであげている、という意識がそこにあるからこその、そうした受け取り方、という可能性も、なきにしもあらずなのでは。
そこまではっきりとした上から目線でなくとも、です。
絵本は子どもといっしょに楽しむものである、という考えのもとに、読み聞かせをしに来てくださっている方は、どれくらいいるのでしょう。
また、この本の中で川端誠さんは
某図書館で講演をしてきたときのこと。僕自身、子ども時代にまったく本を読まない子で、人の会話を聞くのが大好きだったお陰で今があることを語り、子どもの読書推進はおせっかいと説きました。
と「図書館の宣伝」という章で書いています。
考えこまずにはいられないような話です。
というのも、私自身も、今でこそ司書という仕事をするほど本が好きで、読書も人並み以上にはしていると自負していますが、子どものころは全く本を読んでいませんでした。
小学校時代の思い出の本は? ときかれても、一冊も出てこないくらいです。
でも、中学三年生の時にあるきっかけがあって、現在では読書が一番の趣味というひとりの大人ができあがっています。
本を好きになった経緯については、こちらの記事をご参考ください。
だから、本が好きではない小学生たちを前にしても、この子たちはこのままではまずい、なんとかしなくては、という考えは、強くは浮かんできません。
(もちろん、楽しんでくれたらいいなというイベントを企画したりはしますが)
もしかしたら、自分のように、いまはまるで本を読むということに興味がなくても、何年後かにはだれよりも読書にどっぷり浸かる日が来るかもしれません。
或いは、そんな日は一生来ないのかもしれませんが、それはそれで、がっかりすることでもなければこちらが落ち込むことでもないのだと思います。
だって、本を読まなくても、(多くのひとは)生きてはいけます。
ここで、「本を読んだ方が人生が豊かになるに決まっているだろ!」と怒り出すようなひとからは、そっと離れた方がいいと思うのでできればそうしてください。
本が好きなひとにとっては、本は万人にとっての好物ととらえがちですが、必ずしもそうではないのは明らかでしょう。
だから時々、子どもたちにとにかくしっかりした本(?)を読ませようとしている司書には心底うんざりし辟易したりもするのですが……。
そのひとが楽しいと思ったときに、はじめて、その界隈についてより詳しいひとは教えてあげればいいと思うんです。
無理やり引っぱりこもうとする行為には、反対です。
ここまで書きながら「読み聞かせ」という言葉についてはどうかと考えてみましたが、難しいところですね。
これまで、読み聞かせにおすすめの絵本、といった記事をたくさん書いてきてしまいました。
疑問にも思わなかった、というのが正直なところです。
突然司書が、それでは今日の「開き読み」は~などと言い出したら、きっと子どもたちも担任の先生も戸惑うことでしょう。
一度気になり始めるともう気になってしかたがないよくあるあれのように、次第に「読み聞かせ」から感じるニュアンスへの違和感が増してきました。
でも、なあ。
同じように感じた方の中には「読み聞かせ」ではなく「読み語り」という言葉を使っている方もいるみたいです。
「読み語り」……うーん、それはそれで違った違和感が……。
川端誠さんが書いているように、メディアや一般の方がいっせいに「読み聞かせ」をやめて「開き読み」を使うようになれば、流れに沿うように無理なく変わっていけるのでしょう。
だけどそんなことはあまり現実的でもないですし。
司書の方々の意見も気になりますし、お子さんのいる主婦の方などにも聞いてみたいです。
言葉に敏感な、読書好きのすべての方にも。
もちろん、いまは読書好きでないという方にも。
「読み聞かせ」という言葉に違和感はありますか?
ご意見お待ちしております。
それではまた。