『花さき山』
『花さき山』
斉藤隆介:作 滝平二郎:絵
岩崎書店
あらすじ
おらは、ある山にひとりですんでいた。
おらのことを山んばというものもいる。
山んばはわるさをするとされているが、それはうそだ。
おらはなんにもしない。
けれど、山でなにか悪いことがあったら、みんなおらのせいになる。
そんなおらのいる山に、十才のあやという女の子がやってきた。
もうじき祭りで、その、ごちそうになる山菜をとりにきたんだろう。
ところが、奥へ奥へと来すぎてしまい、この山にまよいこんでしまった。
そうして、ここにいちめんの花があって、しかも、見たこともない花だから、おどろいているんだろう。
この花がどうしてこんなにきれいなのか、どうしてこうして咲くのか、そのわけは……
感想
じぶんのことよりもひとのことを想う、その、やさしさとけなげさというのは、だれしもが持っている心なのだと思う。
あるときまでは、なにも考えるまでもなく、そうした行動をとることができていたような気がするけれど、いつの間にか、その先にある見返りを求めるようになってしまっていた。
打算的なおとな。
じぶんにとって、得になるのであれば行動するけれど、そうでないのならば遠慮しておこう。
無意識のうちにそんな思考が頭の中でめぐる。
作品の中で、あやは、「いま、花さき山で、おらの花がさいてるな」と思う。
それは、じぶんでじぶんの言動をふり返る瞬間であるけれど、だからといってそこに打算的な感覚のにおいはない。
ただ、そう思うだけである。
その、ぶつ切り感がいい。
その後で、だからあやはよりひとのためを想って行動するようになった、とか、そういった話になってもおかしくないところを、この閉じられ方。
だからなに? と思うひともいるかもしれない。
もちろん、だからなに? で終わってもべつにいいと思う。
でも、だからなに? の先にあるなにかを探す余地があるということこそが、この絵本の魅力であり、醍醐味でもある気がする。
(あとがきで、作者がけっこういろいろ書いていたりもしますが)
同じ作者・絵の『八郎』と『三コ』という作品を読んでいると、より楽しめる一冊。
滝平二郎さんの、余白でなく余黒とでも言いたくなるような、版画の独特な表現もいい。
押しつけがましくない、ただ、この山に咲いている花というのは、そういうものである、というような作品にぴったりで、読みながら頭の中がしんと静まりかえる。
『モチモチの木』もいいけれど、こちらもぜひ。
癖になる暗さ。
それではまた。