百人一首を第一首から学ぶ(13・14)
十三首目
筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院
訳
筑波嶺の峰から流れ落ちる滴が、やがて水かさを増して男女川になるように、私の恋心も徐々に積もり重なって今では深い淵のようになってしまったのです。
陽成院は868年生~949年没。
10歳の若さで第57代天皇に即位するも、奇行が目立ち17歳で退位。
退位後には何度か歌合を催すなど、歌才があったようだが、勅撰集に残っているのはこの一首のみ。
解説
次第に深く、大きくなっていく恋心を、下流に行くにしたがって太く、強い流れになっていく川に重ねて詠った歌です。
この和歌は、陽成院が光孝天皇の皇女・綏子内親王に宛てたものとされています。
歌の冒頭にある「筑波嶺」とは、茨城県にある筑波山のことです。
この山は山頂がふたつに分かれ、それぞれが「男体山」と「女体山」と呼ばれていることから、古くより恋歌の題材として親しまれてきました。
実際、この山は男女が求愛の歌を詠みながら自由な性行為を楽しむ(!)『歌垣』という行事が行われていたことでも知られています。
この歌垣は、春には豊作を願い、秋には収穫を感謝する農耕の祭りとしてはじまった行事でした。
が、やがて、若い男女が集まって、歌い、おどり、交際する場となっていき、恋愛に関する歌枕として使われるようになりました。
男体山と女体山の峰からは、男女川という川が流れています。
川の始まりというのは、どれも細く弱々しいものです。
が、最後には深く力強い流れとなり、下流で「淵」をなします。
淵とは水の流れがたまって深くなっている場所のことで、川の縁語として水の存在を強調しています。
これに加え「こひ(恋)」には、古語で「水」という意味もあることから、淵に水がたまっていく様子を、徐々に募っていく恋心に喩えていることがわかります。
ちなみに、陽成院の恋の行方についてですが、この歌を受け取った綏子内親王はのちに陽成院の后となっています。
川の淵のごとく深まっていった恋心が見事に成就したというわけです。
十四首目
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに
河原左大臣
訳
陸奥で織られる「しのぶもぢ摺り」の乱れ模様のように私の心が乱れているのは、あなたのせいです。
川原左大臣は822年生~895年没。
六条河原に住んでいたのがその名の由来。
本名は源融といいます。
解説
「陸奥」とは、現在でいう東北地方の太平洋側一帯を指します。
続く「しのぶもぢずり」というのは、福島県の信夫地方で作られていた乱れ模様を特徴とする染物のことです。
名前の由来は信夫地方にあるとも、忍草というシダ植物の一種を使って染められていたことにあるとも言われています。
歌としてはここまでが序詞で、後の「乱れそめにし」にかかってきます。
この「そめ」という表現は「染め」と「初め」の掛詞で、「乱れ模様の染物」と「心が乱れだした」というふたつの意味を持っています。
また、「乱れ」と「初め」は「もぢずり」の縁語という関係にもあります。
最後の「われならなくに」は、「私のせいではないのに」という意味になりますが、暗に「あなたのせいだ」という想いが込められています。
つまり、「私の心が乱れだした原因は私自身ではなく、あなたにあるのです」といった、一方的に恋い焦がれている心情がここにあるのです。
ちなみに、川原左大臣は「川原院」という、広大な庭付きの豪邸を建てたことでも有名です。
陸奥の名所・塩釜(現在の宮城県の一部)の海岸をまねてつくった庭には、毎月30石(約5.4リットル)もの海水が運びこまれ、庭では塩づくりを行うこともできたそうです。