作家のさん付けについて
先日、作家やアーティストなんかで、「さん付け」する人としない人についての話を夫婦でしました。
作家のわかりやすいところで言うと、太宰治さんだとか、夏目漱石さんだとか、そんな風に呼んでいる人と出会ったことがありません。
でも、たとえば、柚木麻子さんのことを柚木麻子と「さん」を付けずに呼んでいる人はあまり見かけません(フランクに文学や作家についての会話をされている方々の中にはいるのかもしれませんが)。
志賀直哉さんも、武者小路実篤さんもあまり聞きませんね。
単純に、ひと昔前の人であればそうなのかな、とも思うのですが、どうなんでしょう。
個人的にも、さん付けをせずに呼んでいる作家はかなりたくさんいます。
井伏鱒二も梶井基次郎も、太宰も宮沢賢治も三島由紀夫も、さんを付けて呼んだことは一度もない気がします。
並べてみると、どれもやっぱり現代よりも少し前の作家という感じがしますね。
あとは、朝井リョウも朝井リョウと呼んでしまいますし、村上春樹も村上春樹です。
この辺は、現代作家。
どういった違いで、さんを付けたり、付けなかったりするのでしょう……。
アーティストで言えば、宇多田ヒカルさんと言っている人や椎名林檎さんと言っている人もあまり見かけません。
たいてい、宇多田ヒカルや椎名林檎と呼び捨てにされています。
でも、ご存じのように二人はひと昔前と言うには新しい方々でしょう。
星野源もどちらかと言うと、星野源と呼んでいる人の方が多い気がします。
個人的な見解
家族間でもいろいろと議論があったのですが、個人的な意見としては、メディアの力が大きいのではないかという気がしています。
テレビ等で、その作家が呼び捨てにされているのを耳にしていればしているほど、その呼び捨ての言い方に抵抗がなくなるのでは、という説です。
だから、ある程度知名度のある作家の方が呼び捨てにされやすいのかもしれません。
たとえばイチローのことを話題にする時にイチローさんとはあまり言いませんし、マツコデラックスのことをマツコさんが~と言うのもなかなか聞きません。
もちろん、そういうこととは無関係に呼び捨てという作家もいます。
それは、作家がもはやふつうの人ではなく、その個人にとってある意味神聖化されている場合もあるのではないでしょうか。
神さまに「さん付け」はあまりしませんもんね。
そこまでいかなくても、好きな作家というのはたいてい、一方的な心の距離が近くなっています。
それ故に、尊敬と親しみをこめて(?)呼び捨てにしているというのもあるかもしれません。
呼び捨てにする、というのは失礼にあたる場合が多いですが、これらの場合はむしろ、ポジティブな意味合いを持った呼び捨てと言うことができそうです。
みなさんの中でも、呼び捨てにしている作家というのは、どういう人でしょう?
また、そこには何か理由があったりするのでしょうか?
ぜひ、ご意見をお聞かせください。
お待ちしております。