本棚のすき間

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【百人一首】第一首~第十首 訳と解説 まとめ

百人一首 第一首から第十首までを一気に学ぶ

 

 

1首目

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

天智天皇

 

収穫期の田んぼに立てられた仮小屋は屋根の苫の目がとても粗く、私の袖は夜露で濡れていくばかり。

 

 

解説

「かりほの庵」は「仮穂の庵」。

収穫期、農民たちは臨時の小屋を造り、そこに寝泊まりをし、作物が獣に荒らされないように見張ったといいます。

その小屋を「仮穂」と呼んでいた。

 

「苫をあらみ」の「苫」は茅などで編んだ筵のことで、「あらみ」は目が粗いことを表現しています。

 

つまり、「仮穂の庵」は、編み目の粗い苫で屋根を葺いただけの粗末な小屋だったということ。

だから、「衣手は露にぬれつつ(衣が露で濡れていく)」のであったのです。

 

 

農民の苦労を詠った歌ではありますが、また別の解釈もあるそうです。

それは、農民の苦労を思って、天智天皇が涙を流し、それゆえに衣が濡れた、というものだそうです。

 

 

『万葉集』にある、詠み人知らずの「秋田刈る 仮蘆を作り 我が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける」という歌が元となり、それが改作されて天智天皇の歌として伝わったとも言われているとのこと。

 

 

天智天皇は626年生~672年没。

天智天皇と言えば、中大兄皇子時代に大化の改新にて、中臣鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺した人です。

 

 

2首目

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

持統天皇

 

いつの間にか、春は過ぎて夏が来たらしい。あの天香具山にまっ白な衣が干してある。

 

 

解説

「天香具山」は奈良県橿原市にある山で、耳成山、畝傍山とともに大和三山を為しています。

天から降りてきたという伝承が残るために、名前に点がつき、三つの山の中で最も神聖視されていたそうです。

 

その天の香具山に翻っているのが「白妙の 衣」です。

もとはカジノキやコウゾの皮の繊維で織った白い布を「白楮」と呼び、それが転じて白妙と呼ぶようになりました。

 

この「白妙の 衣」が示すものについては、昔から盛んに議論が行われているようです。

衣替えの衣が干してある説、神事に使う衣を神聖な天の香具山で浄化している説、ヤマユリや辛夷の花を比喩したという説などがあります。

 

こちらも万葉集に元歌があり、そちらは「衣ほしたり」という完了形なので、衣が干されているのは天香具山とは限らない、という見方も。

干した衣の向こうに天香具山が見えたのでは、という解釈もあるそうですね。

 

 

持統天皇は645年生~703年没。

天武天皇の后で、第41代天皇。

藤原京の造営、戸籍の作成などを行いました。

 

 

3首目

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

柿本人丸

 

山鳥の、長く長くたれ下がった尾のように、長い長い夜を、わたしはひとりさびしくねむるのでしょうか。

 

 

解説

「あしびきの」は、山関連の言葉にかかる枕詞。

ここでは山鳥にかかっています。

 

キジ科の山鳥は、オスの尾が非常に長く、個体によっては90センチにも及ぶことで知られています。

そのために、古来より和歌で、「長いもの」を示す表現に用いられるようになりました。

 

それに続く「しだり尾」も「下に垂れるような尾」を意味する語。

似たモチーフをくり返すことによって、長さを強調しています。

 

ここまでがこの歌の序詞。

以下「ながながし夜」に繋がっていきます。

 

 

この歌は、秋の夜長をひとりで過ごす寂しさを嘆いたものです。

題材となった山鳥には「長いもの」のほかに「ひとりで寝る」という意味も含まれています。

それは、山鳥のつがいは昼間は一緒にいるけれど、夜になるとオスとメスが谷を隔てて別々に寝るという伝承からきているのです。

 

最後に「ひとりかも寝む」とあることで独り寝をより強調し、孤独と寂しさを印象的に演出している効果があります。

 

 

柿本人丸は日本最古の歌集『万葉集』を代表する歌人。

柿本人丸の名前は、時代や歌集によって表記が違います。

『万葉集』では「人麻呂」、平安時代は「人麿」、百人一首では「人丸」と書かれているのが一般的。

 

 

4首目

田子の浦に 打ち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

山辺赤人

 

田子の浦へ出かけて、遠くをながめてみると、真っ白な雪をかぶった富士山が見え、その頂上には、今も雪が降り続いています。

 

 

解説

田子の浦は、駿河湾の西海岸一帯を指しています。

静岡県富士市を流れる富士川の河口付近にあたり、北に富士山を望む景勝地として、昔から知られていたそうです。

 

「うち出でてみれば」で「出る」+「見る」の確定已然形となるので、「出て見てみると」という意味になります。

 

「白妙」とはコウゾ類の樹皮から取った繊維で織った白い布のこと。

そこから、雪、波、雲などの枕詞となりました。

 

田子の浦から富士山を見れば、山頂にしんしんと雪が降り積もっています。

幻想的な美しさに満ちた歌です。

 

 

山辺赤人は三十六歌仙のひとり。

柿本人丸と同様、『万葉集』を代表する歌人で、ふたりを合わせて「山柿(さんし)」と呼ばれ、尊敬されていました。

 

 

 

五首目

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき

猿丸太夫

 

山の奥深く、一面の紅葉を踏み分けながら鹿の鳴き声を聞くと、秋のもの悲しさが身にしみます。

 

 

猿丸太夫は、三十六歌仙のひとりですが、ほとんど記録の残っていない伝説の歌人。

 

 

解説

古来より、飽きは牡鹿が牝鹿を探して鳴く季節とされていました。

「紅葉踏み分け」の主語を、鹿、作者、一般の人とする説がありますが、いずれにせよ、深い山の中に響く寂しげな鹿の声を感じられます。

 

もともとは、『万葉集』に詠み人知らずで載っていた歌。

猿丸太夫の作という証拠は実はないようです。

 

 

 

六首目

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける

中納言家持

 

かささぎが、天の川にかけるといわれている橋。その橋が、霜が降りたようにまっ白になっているのを見ると、すっかり夜もふけたものだと感じるなあ。

 

中納言家持、本名は大伴家持。

三十六歌仙のひとり。

取りまとめに関わった『万葉集』には、最も多い473首もの歌がのっている。

 

 

解説

「かささぎの渡せる橋」は七夕伝説に由来しています。

中国では、七夕の夜にだけ、牽牛と織女を逢わせるためにカササギが羽を並べ、天の川を渡す白い橋を作ってくれるという言い伝えがあるのです。

 

詠み人の家持は、このカササギの橋の城郷、橋に霜が降りてまっ白にまった様子を並べています。

が、どこの橋に霜が降りたのかで、解釈が分かれています。

 

ひとつ目が、霜の白さを天の川に散らばった星に見立てたものとする説です。

これは、中国の詩人・張継が『唐詩選』の中で「月落ち烏啼いて、霜天に満つ」と書いた一節を元にしていると言います。

 

ふたつ目は、冬の宿直の晩、平城京御殿の中にあるカササギ橋に霜が降りているのを見つけて、その様子を詠ったものとする説。

 

冬の澄んだ空気の中で星は確かに白くきらめき、霜が降りてまっ白になった橋もまた趣深いでしょう。

どちらの解釈をとるにしろ、冬のきんとした冷たくも清涼感のある空気が伝わってきます。

 

 

なお、自身の歌を473首『万葉集』に収録した家持ですが、この歌は、その中には含まれていないようです。

 

 

 

七首目

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

安陪仲麿

 

大空をはるか遠くまで見わたせば、東の空に美しい月が見えます。

あの月は、ふるさとの春日にある三笠山に出ていた月と、同じ月なのでしょうか。

 

 

安陪仲麿は698年生~770年没。

遣唐留学生として、唐へ。

そこで、役人となり、玄宗皇帝に気にいられて朝廷に仕えました。

中国を代表する詩人・李白や王維とも親交がありました。

 

 

解説

この歌を詠んだ安陪仲麻呂は、若くして優れた学才を発揮し、19歳で唐へ渡りました。

遣唐留学生として、唐の都・長安で学んだ彼は、中国の官僚登用試験である『科挙』に合格します。

こうして役人となった仲麻呂でしたが、皇帝からあまりに気にいられたため、同時期に唐へやって来た吉備真備や玄昉らが帰国の途につく中、彼だけは唐を離れることを許されませんでした。

 

その後も、仲麻呂は唐朝の諸官を歴任。

35年に渡って唐で暮らし、50歳を過ぎてようやく帰国が認められました。

その際に催された送別の宴で詠まれたのが、この歌だとされています。

 

「天の原」は広々とした空のこと。

「ふりさけ見れば」は遠くを眺めるという意味で、「春日なる 三笠の山」は、奈良県・春日大社周辺の山を指します。

 

かつて故郷で見た月と重ね合わせることで、溢れんばかりの望郷の念を歌にしたということでしょうか。

数十年ぶりに帰国できることになったその感慨深さがにじみ出ています。

 

しかし、期待に胸をふくらませた仲麻呂を乗せた船は、日本に向かう途中で遭難してしまいます。

そのまま、唐の領内である安南(いまのベトナム)に漂着し、再び長安へと戻ることになってしまったのです。

結局、仲麻呂は祖国の地を再び踏むことなく、唐でその生涯を閉じました。

 

 

 

 

八首目

わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 夜をうぢ山と 人はいうなり

喜撰法師

 

わたしの住まいは、都より東国にあって、ごらんのように、心おだやかにくらしています。

けれども世間の人々は、わたしが世の中をつらいと思って、宇治山に逃れ住んでいると思っているようです。

 

 

喜撰法師は六歌仙のうちのひとり。

宇治山に住んでいたということのほかは、詳しいことはほとんどわかっていません。

 

解説

作者である喜撰法師は、都から離れて宇治山で暮らしていました。

そのことで、人々は「喜撰法師は、世の中をつらいとか案じて宇治山にこもっているのだ」と噂していたのです。

「宇治」と「憂し」とかけて「うぢ山」と読み、山暮らしに対する世間のイメージを表現しています。

 

好き好んで、しかも心穏やかに山暮らしをしているのに、自分のあずかり知らぬところで勝手に広がる噂に呆れかえっている様が感じられます。

 

また、「たつみ」は東南の方角を指し、都から見た宇治山の位置を示しています。

 

ちなみに、平安時代、方角は十二支を使って表していました。

東西南北360度を十二等分し、北を「子」とし、右回りに「亥」までを順番にあてはめると、盗難は「辰」と「巳」のあいだになるため、「たつみ」と呼ばれているのですね。

 

 

 

九首目

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

小野小町

 

桜の花が色あせてしまたように、私の美しさも衰えてしまった。

雨を眺めてもの思いに耽るうちに。

 

 

小野小町は生没年不詳、経歴不詳。

小野小町像とされる絵も現存しておらず、容姿の件についても真偽は不明。

 

 

解説

小野小町といえば、絶世の美女として有名な人物です。

しかし、その生涯は謎に包まれています。

出自も出生地もはっきりせず、都でどんな地位にあったのかも不明です。

後宮に働く女性に多かった「町」という名がつくことから、後宮勤めだったと推測されています。

 

その一方で、遺した歌は大変高く評価されました。

『古今和歌集』の序文で、紀貫之は「万葉集の頃の清純さを保ちながら、王朝浪漫性を漂わせている」と絶賛しています。

 

この歌も、花と人生をかけた、叙情的な作品です。

古典で花といえば桜です。

 

「いたづらに」は「無駄に」で、「世」は「世間」の意味です。

「ふる」は「降る」と「経る」の掛詞で、「ながめ」は「長雨」と「眺め」が掛かっています。

 

長雨によって色を落とす桜の花を眺めながら、年経て容姿の衰えた自分を投影しているのです。

 

晩年の小野小町は諸国を放浪したという伝説も残っています。

 

また、小野小町が美人であったことをしめす伝説「百夜通い」というものがあります。

深草少将という若者が小町に恋をしますが、小町は「100日間、毎晩、わたしのところへ通うことができたらお逢いしましょう」と返事をします。

小町のもとへ通い続ける少将でしたが、99日目の雪の晩にたおれて亡くなってしまいました。

 

そんな女性だからこそ、老いていくことへのかなしみが濃く、この歌が生まれたというのもよくわかるような気がします。

 

 

 

 

十首目

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関

蝉丸

 

これが、今日から出ていく人も帰ってくる人も、知っている人も知らない人も出会っては別れるという逢坂の関なのか。

 

 

蝉丸は生没年不詳。

盲目で琵琶の名手と言われるがその詳細は不明。

 

解説

「逢坂の関」は山城国(現在の京都府の一部)と近江国(現在の滋賀県)のあいだにもうけられた関所。

「逢坂」の「逢」には「(人に)会う」の意味もかけられています。

 

京の玄関口で、様々な人が行き来する関所の賑わいを描きつつ、出会ったものはかならず別れる運命にあるという、人生の無常・仏教の考え方があらわれています。

 

また、「行くも帰るも」や「知るも知らぬも」といった対比表現が多用され、非常にリズミカルな和歌です。

超訳マンガ 百人一首物語 全首収録版

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