尾崎放哉について
尾崎放哉という俳人はご存じでしょうか?
昔、中学生の頃に「自由律俳句」というのを習ったかと思いますが、その代表としてよくとりあげられるのが、尾崎放哉の句です。
「咳をしても一人」
この句を耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
これが俳句? という驚きもありますが、その一文から感じられる切なさたるや。
他にも、好きな尾崎放哉の自由律俳句がたくさんあるので、今日はそれを紹介したいと思います。
尾崎放哉の、楽しくかなしく可笑しい俳句
「こんなよい月を一人で見て寝る」
たまらなく素敵なものがそこにあるのに、それを共有する誰かがいない。
そういうことってありますよね。
突然打ち上がった花火にテンションが上がって、わあ、って見つめているんだけど、独りで見ているという状況が追いついてくる、そんなかなしさがあります。
「めしたべにおりるわが足音」
二階にいたんだけど、そろそろご飯の時間かなって、階段を下りていくその自分の足音。
それか、だれかに呼ばれて? ご飯だって下りていく足音?
尾崎放哉のイメージからすると、単純にご飯の時間になったから下りていくっていう方が近い気がしますが……
「打ちそこねた釘が首を曲げた」
あるあるすぎる。
誰しもが一度はその悲しさに打ちひしがれたことがあるのではないでしょうか。
でも、そんな瞬間をこんな風に描写した作品がかつてあったでしょうか?
「烏がだまってとんで行った」
カア、と鳴いてとんでいくのを期待していたのかな。
ああ、いっちゃった、って見送っているそのさみしげな背中が思い浮かぶような一句です。
「紅葉あかるく手紙よむによし」
めずらしくポジティブな句。
でも、手紙を読むにいいくらいあかるい紅葉って、それだけきらびやかで素晴らしい光景ということでしょうか。
「淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る」
あまりにさみしすぎる時って、無意識に意味のないことをしたりしちゃいますよね。
しませんか?
手のひらのしわをぼんやりとながめたり。
孤独と手って、相性がいい気がします。
「蟻が出ぬようになった蟻の穴」
以前はあんなにわんさか蟻が出入りしていたのに、いまはもうひっそりとただ穴だけがそこにあるというさみしさ。
そして、その穴をじっと見つめている、その静かな時間。
「底がぬけた杓で水を呑もうとした」
底がぬけた杓をどうしてそのままそこに置いておくのか。
でも、これに近いことって、たまにありますね。
キャップをとっていないペットボトルをそのまま口に運ぼうとしたり、ないですか? そういうことって。
「爪切るはさみさへ借りねばならぬ」
なにもない暮らしのかなしさ。
「なんにもない机の引き出しをあけて見る」
手持ちぶさたすぎる。
でも、わかる。
「釘箱の釘がみんな曲がって居る」
釘シリーズ。
めちゃくちゃ失敗して、でも捨てられなくて。
学校にある画びょうなんかもよく、ぐにゃってなったやつばっかりケースに入っていたりしますよね。
「淋しいからだから爪がのび出す」
一瞬、どう読めばいいのかわからずに困惑しました。
淋しいから だから爪がのび出す
なのか
淋しいからだから 爪がのび出す
なのか。
後者なのでしょうけど、前者でも伝わってくるものがあります。
「ころりと横になる今日が終って居る」
気づいたらあっという間に一日が終っていたという意味なのか、今日という日が終ってしまったことを思いながら横になっているという意味なのか。
こういう、受け取り方に幅があるのも尾崎放哉の句の魅力だと思います。
「朝早い道のいぬころ」
朝早くからお散歩をしている犬。
ただ、それだけ。
「にくい顔思ひ出し石ころをける」
すっごく人間臭くて好きです。
「ハンケチがまだ落ちて居る戻り道であった」
行きの道でなんか落ちてる、と思ってそのまま通りすぎて、帰ってきたらまだそこにある、っていう、ありますよね、こういうこと。
持ち主はいまごろ落としたことに気づいただろうか、とか、だれかからもらった大事なものなんじゃないか、とか、いろいろ想像してしまいます。
「節分の豆をだまつてたべて居る」
豆まきをした後なのかな? それとも、豆まきをせずにもういいや食べちゃおって食べているのかな?
ぽりぽり。
ほんと、何げない瞬間。
まとめ
なんだかどの句も、自分の人生のある一瞬だったり、どこかで見たことのある風景を切り取られでもしたかのようなあざやかさです。
それでいて、どことなくかなしく、どことなく可笑しく、ふしぎな読み味があるのが尾崎放哉の俳句の特徴だと思います。
ほかにも、あるある! という句や、とてつもなく孤独な句や、なんだかよくわからないけどじわじわくる句がたくさんあります。
いろんな句集が出ているので、気になる方はぜひ読んでみてください。
それではまた。